言葉とはなんと繊細かつ大胆なものであろう。
「てにをは」や活用語尾一つの変化に何かドラマチックな意味を見出そうとする。
一方で、「大嫌い」という言葉で、「大好き」という感情を伝えることも了承している。
言葉というものは、全ては文脈、状況によって意味を与えられていく。しかし、全ての文脈や状況は、言葉によって構築されている。
「少女七竈と七人の可愛そうな大人」の魅力を伝えるうえで、粗筋はなんの役にも立たない。
美しきヒロイン七竈は死なない。
その美しき幼なじみ雪風も死なない。
彼らの前に突然運命的な困難がたちはだかったりもしない。
2人は恋人同士にもならない。
困難は物語の初めから彼らの元にある。
ドラマチックな出自の秘密。
しかしその秘密さえも大袈裟には語られない。彼らはとうにそれを受け入れている。彼らはそれと折り合いをつけるのに少し苦労しているだけ。彼らは、悲しいエンディングを知っている。「別れ」を、あがきもせずに待つ。それだけの話。
なのに、私はこの小説を読むと、胸が詰まる。
苦しくなる。泣きそうになる。悲しくなる。可愛そうになる。
言葉では表現できなくなる。七竈と雪風は互いのことを深く思っている。
七竈には雪風だけで、雪風には七竈だけ。それが、彼らにとっての世界。「しかし」もしくは「だから」彼らは愛の言葉を囁かない。
大きな日本家屋の居間に広がる、鉄道模型の線路。
それが彼らの世界。
その線路の内側と外側に向かい合って座る、そっくりの顔をした美しき七竈と雪風。彼らは名前を呼び合うだけ。ただくりかえし「七竈」「雪風」と。だけど、好きとか愛してるとか一緒にいたいとか、そういう言葉からより明確に、私は七竈と雪風の気持ちを理解する。感情を表現する言葉ではない、ただの固有名詞が私に彼らの感情を伝える。言葉とは繊細かつ大胆なものである。
七竈と雪風の親戚同士が結婚することになって、式の際、写真係を任された雪風は写真機を「機関銃」に見立てる。
シャッターを切りながら――機関銃を撃ちながら――
「すべて滅びて、ぼくと川村七竈だけが残る。そう、ぼくたちだけが」
そう考える筈なのに、彼が口ずさむのは「かなしい歌」。別れの歌。かなしい気持ちを吹き飛ばすくらいの疾走感。ロックンロール。サンボマスターが叫び、声を枯らして歌う「さよならベイビー」を、美しき雪風は誰にも聞こえない声で口ずさむ。
七竈を思って。
機関銃で撃っても、誰もいなくならない。
なのに、七竈だけがいずれいなくなってしまう。
「さよなら」の言葉が、雪風の七竈への気持ちを、私に伝える。
言葉とはなんと繊細で大胆なものか!!
どきゅううん!
と、ぼくは最後の引き金を引いた。
さよなら七竈。
雪風から七竈への「さよなら」は、まぎれもない「i love you」なのだ。
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